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第16話 微妙な変化

Author: 釜瑪秋摩
last update Last Updated: 2025-08-05 20:21:55

 地下から聞こえた鈴の音、鏡に映った女性の影、庭の白狐たち。

「朝霞様は……全てご存じなのですね」

 私の問いかけに、理玖は小さくうなずいた。

「この屋敷で起きることは、大抵私の知るところです」

「では、昨夜、私が……」

「ええ。廊下を歩かれていたことも、地下の扉の前に立たれていたことも」

 理玖は静かに確認した。私は顔が熱くなるのを感じた。完全にばれていたのだ。

「申し訳ありません。契約に反することを……」

「いえ」

 理玖は首を振った。

「立ち入りはされていません。境界を確認されただけです。それは契約違反ではありません」

 その寛大さに、私は胸が熱くなった。理玖は私を責めるのではなく、理解しようとしてくれているのが伝わってくる。

「ただし」

 理玖の表情が再び真剣になった。

「今後、何かが起きた時は、一人で対処しようとしないでください。この屋敷には……私以外にも、あなたを守ろうとしている存在がいます」

「私を守ろうとしている存在?」

 私は昨夜の白狐たちを思い出していた。あの優しい挨拶のような仕草。

「今は詳しいことをお話しできませんが……あなたはここで歓迎されています」

 理玖の言葉に、私の心は温かくなった。歓迎されている。昨夜感じた安心感は、間違いではなかったのだ。

「朝霞様……」

「はい」

「私は……この屋敷にいても良いのでしょうか? 契約以上の意味で、ここに居場所があるのでしょうか?」

 それは私にとって、とても大切な質問だった。形式的な結婚相手としてではなく、一人の人間として受け入れられているのかどうか。

 理玖は長い間沈黙していた。まるで、どう答えるべきか迷っているかのように。

「鈴凪さん」

 やがて理玖が口を開いた時、その声はこれまでで最も優しい響きを持っていた。

「あなたがここにいてくださることを……私は嬉しく思っています」

 その言葉に、私の胸は高鳴った。契約上の義務

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